大洗ゴルフ倶楽部

倶楽部案内
ヒストリー

大洗ゴルフ倶楽部の誕生

1950年代初頭、当時茨城県知事の友末洋治氏は、磯節でその名を知られる景勝の地大洗を、夏場以外も活性化するにはどうすればよいか腐心していた。

ゴルフ場一帯の松林は、茨城県と大洗町の公有地である。しかし戦中戦後の混乱期、県にも町にもここを維持管理する余裕などなく、地域住民の生活に欠かせない燃料の供給源になっていて荒れ放題だった。

霞ヶ関カンツリー倶楽部のメンバーだった友末氏は、戦後の混乱からようやく立ち直り少しずつゴルフ愛好家が増えてきたことに着目、ここにゴルフ場を造って地域振興と自然環境の保全を同時に図れないか、その発想がそもそも大洗ゴルフ倶楽部誕生のきっかけだった。

1951年(昭和26年)現地を調査する友末氏ら一行
1951年(昭和26年)現地を調査する友末氏ら一行

早速、町長をはじめ町の議員や有力者の同意を取りつけ、また資金面では、友末氏自らが先頭に立ち、日立製作所や中央財界で活躍している県出身者などを訪ね、精力的に協力を依頼して回った。

一方コースの造成は、霞ヶ関CCの創設者で当時コース設計の権威者だった藤田欽哉氏に相談を持ち込んだ。友末氏は、当時藤田氏の片腕といわれていた井上誠一氏を紹介され、2人の交流はここから始まった。

オープン間もないころ吉川英治、三船敏郎ら文壇、映画関係者一行数十人がコンペを開く。ショットをしているのは石川達三
オープン間もないころ吉川英治、三船敏郎ら文壇、映画関係者一行数十人がコンペを開く。ショットをしているのは石川達三

東洋のワビを志向した井上氏

現地に案内された井上氏は厳しい戦禍を受けた日本にあって昔の姿を留めている黒松群の景観に深く感動、この地にわが国屈指のシーサイドコースを造ることに意欲をみせ快く承諾した。

レイアウトをする際の条件は、観光や漁業の振興を担う松林の保存。これを基本に、自然の地形を生かして人工的な気分を与えず、砂丘と松林だけのもっとも素朴な組み合わせでコースの戦略性を発揮させる。つまり、バンカーや池などにあまり頼らず、天空を吹きぬける風や密生した松の木、砂丘のアンジュレーションといった自然体をハザードとし、松を基調にしたいわば東洋のワビ、素朴な美を強調するものであった。

開場当時旧クラブハウスのベランダで寛ぐ井上誠一氏(左)
開場当時旧クラブハウスのベランダで寛ぐ井上誠一氏(左)

経営母体の(株)水戸カンツリー倶楽部が1952年9月、授権資本金1億円で設立され、これを以ってコース造成に着手。以来井上氏は現地に泊まり込んで指揮を執った。一方、会社発足に伴い翌年5月には、友末氏が自らキャプテンに就くなど倶楽部役員の陣容も整い、同年10月、当時国内でもせいぜい二十数コースしかなかったチャンピオンシップコースの1つが登場することになる。

芝生は果たして砂地で生育するのだろうか。建設当初から危ぶまれていたのがこの命題だった。不運にもその懸念が2年後に的中。夏、50日もの渇水が続き、考え得る蘇生対策を講じたが全体の80%が枯死してしまった。グリーンには十分客土を敷き詰めた。しかし、乏しい建設費では広大なフェアウェーにまで手が届かない。高麗芝より暑さに強い野芝を用いたのだが、それもだめだった。

このため、恒久的な対策として18万㎡余の全フェアウェーの20cm層を粘土層にし、さらにその客土上に高麗芝を張る。同時に給水用井戸を新設、散水栓も増設した。

開場時の倶楽部ハウス、純和風様式は2代目にも受け継がれた
開場時の倶楽部ハウス
純和風様式は2代目にも受け継がれた
井上誠一氏によるゴルフ場入り口のスケッチ
井上誠一氏によるゴルフ場入り口のスケッチ

コースのグレードアップへ

当初、年に1万人台だった来場者は、1950年代の後半になると、常に4万人前後にまでに急増する。設計段階での来場者は、1日70人、年に2万5~6千人しか見込んでいなかったから、施設もコースも手狭でニーズに追い付かない。練習場の打席も当初の 10から16に拡張、これに伴う安全確保のため1番ホールのティーグラウンドを前に移動してパー4とし、1番のパー5に代わって2番をパー5とする現在の状態にした。

グリーンの傷みも早く、1965年には全ホールが張り替えられた。もともと大洗は、高麗とベントが半々にセパレートされたワングリーンだった。ここの土壌が洋芝に向くかどうか危ぶまれていたので大事を取ったのだが、十数年を経て安全が確認できたため、これを機に2対1の割合でベントの面積を広くした。

1956年(昭和31年)7月完成の旧ロッジ
1956年(昭和31年)7月完成の旧ロッジ

その後、2度のオイルショック時にはかなりダメージは受けたものの回復、来場者は年間5万人台後半から最高6万人を超えたことさえあった。

踏圧でグリーン面は極度に疲労、加えて用水にも限りがあり節水の必要に迫られた。このため、1965年に次ぐ2度目の大改修が提案され、1990年6月、約半年の工期と2億8千万円余の工費をもってTGパーウィック方式のサンドグリーン化に踏み切った。この方式はグリーンをいくつかの区画に仕切り、ターフ下50cmにビニールを敷いて水もちをよくする。当然、流出が少なくなるから節水にも環境保全にも役立った。

8割がた芝が枯れ昭和31年全面的に張替え
8割がた芝が枯れ昭和31年全面的に張替え

青松は大洗のいのち

当倶楽部には、目通り直径30cm以上の松が約2万5千本、うち樹齢百年にも達しようかという巨松は千数百本に及ぶ。このかけがえのない松をいかに守り、後世に残すかは、即コースのクォリティにつながる。

松には、日本人の心を揺する独特の形と響きがある。ところが、1965年ころから松くい虫が猛威を奮い始め、今なおその対策に心血を注いでいる。今、よほど管理の徹底した所でないと松林を見ることすら難しくなったことを思えば、大洗の松は樹齢や姿、形から言って天然記念物級といっても過言ではない。

松を枯らす要因は松くい虫ばかりでないから薬散、施肥、散水といった当たり前の管理に加え、成木を移植でもしようものなら数百万単位の経費がかかるので、松くい虫に強い抵抗松を導入するなどして、高い難易度を保つ当倶楽部ならではの配慮がここにもある。

大洗ゴルフ倶楽部は、2003年に開場50年の節目が過ぎた。創設者の友末氏も設計者の井上氏も今はいないが、コースに注がれた2人の理念は着実に受け継がれ、成熟の度はますます深まりを見せている。

開場して間もないころのコース全景
開場して間もないころのコース全景